新聞記事を読んでまじめな映画と思って見た。映画のストーリーは出来るだけ事前に知らないようにすることがオレの流儀なので、新聞記事でもパッと見で、「これ見よう」と思っただけ。
だから映画を見ながら、どういう展開になるのだろうと見ていたが、何となく「話しっこ」の世界で終わった。東北(他でもそうかも知れないが)では、年寄たちがストーブを囲みながら昔話をしてくれた。
その一話一話を「話しっこ」という。ばあちゃんが「さぁ、話しっこ聞かへるか」と云って、キツネに騙された話などを身振り手振りで面白おかしく聞かせる。そんな「話しっこ」を思い出した。
映画の土台もやはり「遠野物語」(岩手県)の話しっこが素材だ。山男と山女・・・山ばんば(婆)というのも話しっこにはあったなぁ。遠野市に行くと語り部のばあさんがお客さんの前で「話しっこ」をしてくれる。
東北弁そのままなので、何となく雰囲気は分かるものの細かいところは難しい。映画「山女」もリアルを大事にしたのか、出来るだけ東北弁を徹底し、早池峰山(信仰の厚い山)も何の説明もなく物語の中心に据えられる。
秋田出身の自分には分かるが、東北以外の地域の人にこの映画のテイストが分かるのだろうか、それどころか表面的な言語理解さえも難しいのではないかと思ったものです。(でも、分かりやすく話すとそれはそれでリアリティが無くなるが)
18世紀という日本の中世で呪術師(イタコ?)による占いで冷害を何とか払拭させるためには生娘による人身御供が必要だとのお告げ。こんな非科学的な時代があったとすれば、アメリカはどうだったんだろう。インディアンと勝手につけた名の先住民を殺し続けていたのだろうか。
ヨーロッパはどうだったんだろう。武力に物を言わせてアフリカで普通に生活していた人々を捕まえて奴隷として米国や欧州に売っていたんだろうか。つい、300年ほどの前の話だ。
そう考えれば日本の東北の山奥の寒村で、不作にあえぐ人々が山の神にすがっていたのもまんざら不思議では無いような気がしてしまう。主人公の少女「リン」が言う「村では生きていけないけど山では生きていける」。
人々と共に生きられない人間が「山」で生きることは可能であった時代なのかも知れない。